モノへの感覚
カズオ・イシグロとシェイクスピア
-『創造と模倣』の旅⑤

カズオ・イシグロの作品のなかで比較的わかりやすく、推理小説仕立ての秀作『わたしたちが孤児だったころ』は、そこからドイルのシャーロック・ホームズものにも、シャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』にもつながっていく広がりのある小説だ。
読者は主人公バンクスの養女として冷静な女性に育ったジェニファーの背後に、これまた思慮深い女性に成長したジェイン・エアの影を見る。
ジェニファーのモノに対する考え方については、『創造と模倣』のなか、引用を踏まえてゆっくりと論じた(64頁「気の利いた科白」〜)。
この勢いで、作品に投影した著名な文人のモノ観のについての考察を探したところ、シェイクスピア全作品の翻訳者松岡和子の『「もの」で読む入門シェイクスピア』に行き着いた。

『「もの」で読む入門シェイクスピア』

『「もの」で読む入門シェイクスピア』
(松岡和子著、ちくま文庫)

シェイクスピアに詳しくなくとも、『ヴェニスの商人』の「肉一ポンド」や『オセロー』の「ハンカチ」くらいは何とか思いつくが、『ロメオとジュリエット』の「インクと紙」と来たあたりで考察はとまってしまいかねない。
ところが本書はシェイクスピア全作品の「もの」に網羅的な視線を注いでいる。面白い。
そして同じモノでも、ルネサンス世界と21世紀とでは、感覚に大きな開きがあるとわかる。
モノに込められた微妙な意味合いが舞台で活きるシェイクスピア世界。
そこから産業革命を経て、19世紀ディケンズ世界のモノの横溢。
二つの大戦を経て、ついに20世紀末から21世紀にかけて、モノが時としてもはや執着の対象ではなくなったイシグロの世界が出現した。

文|栂正行

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貨車とコンテナ -『創造と模倣』の旅④

東からの新幹線で浜松駅を過ぎるとすぐのところ、北側の窓から多数のコンテナが見える。
生まれたときからコンテナのあった世代は、コンテナの出現以前に無数の貨車が操車場で入れ替えられていたことを知らない。
たとえばさいたま副都心、スーパーアリーナのあたり。
かつては操車場があり、北から電気機関車に引かれてきた貨車が蒸気機関車に組み合えられ、新たな編成の一部となって別の電気機関車に引かれ南に旅立った。
貨車とは? という世代もいよう。貨車とは運ぶものに合わせて作られた車両で、タンク車などは現在も活躍している。
ほかに冷蔵車、無蓋車、家畜車、編成の最後にくる車掌車もあった。多様性の極みだ。
次の画像は群馬県上信電鉄のとある駅にあった貨車(撮影:著者)

群馬県上信電鉄のとある駅にあった貨車

これなどはコンテナに向かう途上のつくりという趣で、なかにほどんどなんでも積める。
やがてコンテナの時代が来た。
個々の個性的な貨車が家畜車のように自然に対し具体的に密着しようという創造行為の産物であったのに対し、コンテナの中身はさっぱりわからない。
どのコンテナも複製アートのよう。抽象の度合が加速する。
そしてコンテナ船は今日もこぼれんばかりのコンテナを満載し港を出入りする。

コンテナ船と富士山

コンテナ船と富士山 写真|長澤一徳

文|栂正行

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夫婦岩 -『創造と模倣』の旅③

波が岩を削る。
自然がその一部を削る。
ここに人の介在はない。
ところが人は二つの岩に
夫婦岩という言葉をあて
元来なかった意味を
付与する。
以後、あとから来たものは
二つの岩を夫婦岩としか
見られなくなる。
命名という創造行為は
容易には揺るがない。

夫婦岩(三重県伊勢市・二見興玉神社)

夫婦岩
(三重県伊勢市・二見興玉神社、2018年12月)
文・写真|栂正行

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