駿府城公園。手前の花が同じ幹から発した奥の花を借景している。
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『引用と借景』を巡るもう一つの旅の想到
二つの用語(引用と借景の旅⑨)
『引用と借景』出版から、無意識的ですら、この二つの用語の網の目を通してアートを眺め続けている。
いつまで続くことか。
しかし本来、用語と作品はイタチごっこの関係にあり、用語が作品をとらえる、作品が用語の手をいともたやすくすり抜ける、この繰り返しだ。
文化庁新進芸術家海外研修制度50周年記念展のポスターを目にし、引用も借景もふんだんに見つかろうと、さて、会場に入るや、心地よくも用語を忘れることができた。
今井信吾「裸婦座像」、斎藤研「風景」、遠藤彰子「明日」、安達博文「ドローン」、山内和則「室内」、石黒賢一郎「SHAFT TOWER」、金子亭「春の暮」、大場再生「花火のような記憶」、元田久治「Foresight・Shibuya Center Town」、そして川村悦子「黄いろい花」。
またしても川村の文章を読み込んでしまう。
名古屋市美術館(引用と借景の旅⑧)
名古屋市美術館に来るたびにこの空中に引用されたかの男を見ることすでに三十余年。
あらためて引用という観念を頭におき常設展を見直すと、ディエゴ・リベラの「プロレタリアの団結」、三岸好太郎の「海と射光」、赤小川源平の「あいまいな海」シリーズと、この用語の奥行きの深さに思い至る。
在来線の車内広告(引用と借景の旅⑦)
車内に様々な広告をと呼びかける広告。
広告を車内に引用するという解釈も成り立つ。
フォイルズの絵はがき(引用と借景の旅⑥)
『わたしを離さないで』の主人公キャシーとその寄宿学校の生徒たちならいざ知らず、高齢になっても手放せず箱にしまいっぱなしというモノがある。
キャシーたちが閉ざされた空間の中、モノを箱に大事にしまいこんでおくというのはよくわかるが、むかし旅した土地の絵葉書が衣更えの折などに、中身の分からぬ箱から突然出てきて、しばらくはその旅の行程すら思い起こせないというのが多くの人々の経験ではなかろうか。
この鮮やかな赤いカードは、ロンドン、ソーホーにある大書店フォイルズの無料の絵葉書。
イギリスの書店の内部は、さまざまな色の本が平済みにされカラフルなキルトのよう。
ポスター、ポストカード、講演会案内、バーゲンの案内とすべてけばけばしいものの、それも寒い国ならではのこと、全体としてはバランスがよく取れている。
クレーン車(引用と借景の旅⑤)
クレーン車は、目的の場に次々と資材を引用していく。
やがて資材は引用されたものからひとつの建築物へと変わり、その場に自らの存在を誇示する。
自らが引用物の集合体であることも忘れて。
ちなみにクレーン車のクレーンの裏側には、これ以上直接的な表現は見あたらぬほど見事に簡潔な言葉が大きな字で書かれている。
『吊り荷の下に入るな』
(2017年2月|東京都世田谷区・下北沢)
蓑虫庵(引用と借景の旅④)
伊賀上野は芭蕉の生誕地。
生家、菩提寺、記念館、そして蓑虫庵と芭蕉縁の場はいくつもある。
芭蕉は四十歳台に大きな旅をいくつもした。
大阪で「旅に病ん」だ時の目的地は長崎であったともいう。
ところで、「引用と借景の旅」のための画像にキャプションを付しているうちに、もしや俳句というのは土地土地の自然に付されたキャプションのように思えてきた。
ことば以前に自然の風景がある。その風景にことばをあててみる。
そのようなことを俳人はしているのではないかと。
(2017年7月中旬|三重県伊賀市)
本間美術館・鶴舞園(引用と借景の旅③)
鶴舞園の庭に入ると同時にその美しさにしばし立ち止まる。
そういう庭はそうあるものではない。
ふとわれにかえり、庭の高低差を楽しみながら移動する。
建物に入り、今度は中から庭を眺め、もう一度、庭の美しさに目を奪われる。
入口近くの灯籠を覗き込むと、鳥海山が見える。借景だ。
(2017年9月上旬|山形県酒田市)
山頂は強風(引用と借景の旅②)
静岡県、新富士駅付近から見た富士山。
あたりが晴れ渡っているだけに、山頂の雪けむりが風速の強さを物語る。
山のように大きな船が疾駆するときの水しぶきを連想させる。
(2017年12月下旬|新富士駅付近)
焼津小泉八雲記念館(引用と借景の旅①)
書籍『引用と借景』を著した著者による、アートを巡る旅の続きを描く「引用と借景の旅」シリーズ。
焼津小泉八雲記念館。
『怪談』などで知られるラフカディオ・ハーンは、ギリシャ生まれのイギリス人。
ヨーロッパ、アメリカを経て、島根、熊本、東京で教師をする。
安住の地を求めて放浪したのか、その移動距離は当時としては珍しい。
焼津駅は静岡駅から在来線で三つ目。
(静岡県焼津市)